待ち合わせは大門駅だった。

「東京タワーの近くでワインを飲みませんか。マユミさんにお話ししたいことがあるんです」と、エリカに誘われたのだ。増上寺方向に向かっていくと、オレンジ色の東京タワーが見えてくる。

「私、メルローが好きなんです」と、エリカはくすりと笑う。ワインの話だ。「マユミさんも、メルローが一番好きだと言ってましたよね。一番、自分らしくいられる気がするワインだって」

いつか言ったかもしれない。でも、記憶にはない。

確かに、熟した果実のようなふくよかな、でも優しい味わいは、成熟した大人へと変化しつつある彼女に、いかにも似合うだろうな、と思う。

エリカは、友人の娘だ。もう10年も前に、好奇心で訪れたワインの会に来ていた人たちと、その後、それぞれの家に集まるほどの仲になった。年齢はバラバラだけれど、ワインが好きだという共通点があるおかげで、いまでも親しいつきあいが続いている。

そのメンバーのひとりの家に招かれたときに現れたのが、エリカだった。通っている学校のブレザーの制服を着て、ワインを飲む大人たちの間に物怖じせずにやってきた。

そして、まっすぐにこちらを見ると「こんにちは、娘のエリカと申します」と挨拶をしたのだ。

いずれワインが飲める年齢になったら、ぜひご一緒してやってください、と、母親である友人は言う。「はい、ぜひ、ご一緒してください」と、エリカはまだあどけない笑顔を浮かべた。

それからもう10年。ワインのことなどちっともわからなかったマユミは、自身の主宰で小さなワインの会をひらくまでになった。

会社ではいつまでたっても平社員のままで、ちっとも責任のある仕事を任されない。実績とよべる実績のないまま、じりじりと年齢だけが上がっていく。

私には本当に、何の実力もなかったのだろうか。焦りを抱えるなか、マユミが唯一、采配を振るうことのできる心地よい場所が、そこだった。

こうやって、こぢんまりと生きていくのもいいかな。目の届く範囲で、好きなことをやって、食べるだけのお金を稼いで。そして、いつかパートナーに恵まれるという幸運があればいい。少しずつ、そう考えていた。

数年前にお酒の飲める年齢になったエリカも、よく、その会に参加してくれていた。でもそれ以外の場所で改めて会ったことは一度もなく、急に誘われたことにマユミは少し驚いていた。

話したいことって、なんだろう。

暮れてゆく街にどんどん存在感を増してゆく東京タワーを目指しながら、ゆっくりと歩く。横を行くエリカの、微風に揺れる髪の先。

ついこの間まで、ほんの子どもだと思っていたのに。お姉さんを呼び出すなんて、生意気になったものね。

初めて出会った時にはまだ制服を着ていたんだよ、君は。と、つぶやいてみる。

まばゆいほど輝く東京タワーを間近に臨むレストランのバーに入る。すっかり手慣れた采配に、いつの間にこんなことを覚えたのだろうと思う。

ワインが運ばれてきた。互いのとりとめもない近況報告をしたあと「ところでさ、彼氏はいるの?」とマユミは尋ねる。彼女の母親に、それとなく探ることを頼まれていたからだ。

「彼はいますよ。でも......いまは恋人がほしいんです」と、エリカ。

「え、彼と恋人って、違うの?」

「違います」

こちらを見てきっぱりと答えたエリカのやわらかなくちびるが、玻璃のように薄いグラスの縁に触れる。

テーブルの下でマユミは軽く手を握られたのを感じた。エリカの指がそっと絡んでくる。その瞬間、身体が動かせなくなった。

そう。マユミは10年前のあの日、制服のエリカがくるりと瞳をひらいたときから、もうずっとこうやって、動けなかったのだ。

傾けたグラスの縁から赤い液体が彼女の喉元に流れ込む。マユミはその喉元から目が離せない。もう、エリカを見つめていることしかできない。