| 眠りから覚めたきもの |
四十代に入った頃でしたでしょうか。私がきものに興味を持ちはじめると知るや、東京の母から少しずつ、きものが送られてくるようになりました。
私としては、父の形見だけで充分だったんですが、弾みがついた母の気持ちとしては、そういうわけにもいかなかったのでしょう。そんな母からの、はじめての「きもの便」には、紬が三枚に、鮫小紋が一枚、入っていました。
どれもきれいにしつけ糸がかかったままでした。私のせいで、二十年も箪笥で眠っていたのか、と思うと、愛おしく、手のひらでそーっとなでたくなりました。ああ、あの頃、母はこんな常着まで用意してくれていたのか、と胸にくるものもありました。
けれど、一方では、複雑な気持ちにもなってきます。
これらのしつけがかかったままのきものは、父の生命保険が化けたものなのです。最初の結婚のときの、嫁入り道具として誂えられたものでした。数年に渡って、入退院を繰り返していた父ではありましたが、結婚式には、車椅子に酸素吸入をつけてでも、出席するんだ、と言っていたのです。
「圭子をよろしく頼む」わずか二ヶ月後に急変し、他界してしまったのでした。
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そして臨んだ披露宴。仲人は先方が親しくしていた森義朗衆議員議員でした。片親となった娘に、肩身の狭い思いはさせたくない、という母の気張りだったのでしょうね。あろうことか、父の生命保険で、きものを含む花嫁道具を調えたのだといいます。
それを聞かされたのも、「父のきもの」を見たときでした。
きものなんか一枚もなくても、私は困らなかったのに。
先方が旧家だろうが、何だろうが、それに怯むような私じゃなかったのに。
「いいえ、お父さんもそれを望んでいたと思いますよ」
母は言ったものでした。そうかもしれません。けれど、ムダになってしまった。
先方の親と同居するときに持たせようと、実家でそのときを待っていた箪笥は、結局、私の離婚に伴い、行き場所をなくしてしまいました。
以来、二十年間、躾がほどかれることもなく、きものは眠り続けてきました。
けれど私は前を向いて、生きていかなければならなかった。
二度目の結婚のあとは、もはやおばさんと呼ばれる年齢です。
しかし送ってきたということは、これを着よ、ということでしょうか。
たとう紙を広げるたびに、私の心にはもわーっとしたものが広がっていく。
なるほど、母は考えて、送ってきていました。
晴れ着は嫌い、紬が好き、無地が好き、と言ったのは私です。
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紬は一枚が見事な朱、もう一枚は藍地に朱の井桁。三枚目は椿の織り文様。そして残る一枚は、一見、無地に見える、躑躅(ツツジ)のような色合いのピンクの鮫小紋でした。
けれど色合いだけでなく、どうにも微妙に私の好みとズレてしまっている。心根のやさしい娘なら、好みを殺すこともできるのでしょうが、この私は残念ながら、そういう性分ではない。おまけにです、これらのきものが、父の生命保険が化けたかと思うと、よけいにいらいらしてくるものがある。これはもう送り人に電話するしかありません。
「もしもし」
「あ、きもの、届きましたか?」
「その、送ってきてくれたきものだけど……」
「あれなら、ふだんでも着られるでしょ」
やはりそうですか。
「おかあさん、娘をいくつだと思ってるの。四十歳よ、四十歳」
「あら、きものは派手なくらいでちょうどいいの。洋服とは違うんだから。母なんか、四十代のころに、ピンク、着てましたよ。ふだんから着慣れてないと、仕事で着ても、しっくりきませんよ。家で着るなら、色なんてどうでもいいでしょ」
「家って、だって、自分で着られないもの」
「この際、どなたからか習ったらどうお?」
「えっ、うーん」

ところがそれからまもなく、仕事で「父のきもの」を着ることになったのです。
当然のことながら、男ものの大島に合わせる帯なんか、手持ちにはありません。新調するしかない。ここはセンスの見せどころ、と一応、母に電話したのでしたが、
「センスだけじゃ、帯は選べませんよ。染めには織り、織りには染めといってね、きものには決まりがあるの。京都のお友だちにでも相談して、早目に買っておきなさいね」
「はい。わかりました」
あら素直。しかし返事がいいときほど、私の場合は要注意なんです。
娘が夫のきものを着たところも、見ておきたかったのでしょう、ちょうどいい頃合いに、母が上洛してくることになりました。なーんだ、だったら、母とデパートに買いに行けばいい、と先延べにしてしまった。母が上洛したのは、前々日の夜でした。
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「圭子、どんな帯を買ったの」
待ちかねたように、母が訊きます。
「それがね、まだ買ってないの。おかあさんといっしょに行こうと思って」
そう言えば喜んでくれるかと思ってた母は、眉根をきゅーっと寄せて、「まあ、どうするのっ」と言う。
えっ。まさか帯までが、仕立てが必要とは、思ってもいませんでした。
デパートなどでも、売られているのは帯ではなく、帯地なんだという。呉服売場で今まで何を見ていたの、と言われましたが、そもそも呉服売場なんて行ったことがありません。しかし何ですか、きものは帯に至るまで、オートクチュール、仕立てるんですか。
「そんなこと、子どもじゃないんだから、知ってるものだと思ってましたよ」
そうですよね。でも誰も教えてくれませんでした。
小学校の家庭科の授業で教わったのは、ボタンの付け方、スウェーデン刺繍。中学ではスカートを縫いましたが、だったら浴衣も縫わせてほしかった。いえ、百歩譲って、半襟の付け方くらい、教えてほしかった。そしたら私たちの世代は、もう少しきものに興味を持っただろうに、と思わざるを得ません。
「かがり帯でいいなら、母がかがってやれるけど」
「かがり帯って何?」
なさけない。ともあれ、翌日、古稀を過ぎた老母と娘は、四条のデパートに走りました。呉服売場、もっときらびやかなところかと思っていましたが、そうでもないんですね。
母が言うところのかがり帯(八寸名古屋帯)はすぐに見つかりました。お太鼓のところだけを二重にしてかがるだけの、厚地織のことのようです。でも巾が八寸ということで、ふつうの帯より三pくらい狭いらしく、素人目に見ても、貧弱な印象は否めません。
でも、選択の余地はありません。柿色のものを選びました。
そのとき、ベンガラ色のきものの生地のようにものが目に入りました。
「おかあさん、あれは?」
ちりめんでしょうか、ふわりかけてある。でも、正札には名古屋帯とあります。
「ああ、いい色ね。あれが染め帯なの」
染め帯、あんなてれんとした張りのない生地が帯?
「そうですよ、中に芯を入れて縫うんですよ。おかあさんが言ったときに、さっと買いに行っておけば、あういう、しゃれ帯が選べたんですよ」
あれ、と思いました。母はあるときから、私と喋るときも、自分のことを「私」もしくは「母」と、言うようになっていたのですが、気がつけぱ、久々「おかあさん」の復活です。
「そうか。惜しかったね。やっぱり、あっちのほうが粋だよね」
「気に入ったんだったら、あれも買ったらどう?」
「そうだね」
と、調子にのる母娘なのでした。というのも、それらの帯は、私がそれまで抱いていた帯の値とは、桁がひとつ違っていたからです。というのも、きものは宝飾品のようなもの、という解釈が、私の頭のなかでは出来上がっていたんですね。ましてや私の場合は、父の生命保険というキーワードがありますから、なおさらです。
けれど目の前の帯に付けられた数字は、まるっきり日常の世界のものです。
そこで思ったのが、箪笥で眠り続けている私のきものでした。
「そんなにいいものじゃないんだけど」
と、母は言ったものでした。もしかすると、その言葉、額面通りに受け取ってもいいのかもしれない、と思ったのです。
そしたら、ふっと楽になった。きものだからと、大事に奉らなくても、使ってあげればいいんだ、たかがきものなんだから、と思えるようになったときでした。
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五条坂での撮影の当日、市田ひろみ美容室で着付けてもらった「父のきもの」と、母が夜なべでかがってくれた帯は、予想以上に母の目にもよく映ったようでした。
帰り道、母がぽつりと言いました。
「若い頃のきもの、色が気に入らないのは染め替えてもらったらどうお?」
それは私のきものを、眠りから覚ます呪文だったのかもしれません。

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| photos & text/ Aso Keiko design / Cafeglobe.com |