更新日:2006年4月28日 RSS

きもの遊び あるいは京都暮らしも、猫さえも

京都の町家で暮らす女性は、どんな風に着物と、季節とつきあっているだろうか。そんな問いかけに応えてもらっているような、古都からの季節の便り。暮らしぶりも少々添えて。 文・写真:麻生圭子
その4 眠りから覚めたきもの


 四十代に入った頃でしたでしょうか。私がきものに興味を持ちはじめると知るや、東京の母から少しずつ、きものが送られてくるようになりました。

 私としては、父の形見だけで充分だったんですが、弾みがついた母の気持ちとしては、そういうわけにもいかなかったのでしょう。そんな母からの、はじめての「きもの便」には、紬が三枚に、鮫小紋が一枚、入っていました。

 どれもきれいにしつけ糸がかかったままでした。私のせいで、二十年も箪笥で眠っていたのか、と思うと、愛おしく、手のひらでそーっとなでたくなりました。ああ、あの頃、母はこんな常着まで用意してくれていたのか、と胸にくるものもありました。

 けれど、一方では、複雑な気持ちにもなってきます。

 これらのしつけがかかったままのきものは、父の生命保険が化けたものなのです。最初の結婚のときの、嫁入り道具として誂えられたものでした。数年に渡って、入退院を繰り返していた父ではありましたが、結婚式には、車椅子に酸素吸入をつけてでも、出席するんだ、と言っていたのです。

「圭子をよろしく頼む」
 見舞いに訪れた婚約者の手を、父は両手で握り、涙したといいます。私がその場から、花瓶の水を替えに、離れたときでした。こんな骨と皮だけになった手に、よくぞこれだけの力が残っていたものだ、と彼は言ったものでした。婚約者は跡取りの内科医でした。一方の私は、音楽高校を病気で休学、二年留年、復学、退学。芸能界に入りつつも、何とか大験を経て、美大の短大に入学した頃でもありました。父は安心したんでしょうね。

 わずか二ヶ月後に急変し、他界してしまったのでした。

 そして臨んだ披露宴。仲人は先方が親しくしていた森義朗衆議員議員でした。片親となった娘に、肩身の狭い思いはさせたくない、という母の気張りだったのでしょうね。あろうことか、父の生命保険で、きものを含む花嫁道具を調えたのだといいます。

 それを聞かされたのも、「父のきもの」を見たときでした。

 きものなんか一枚もなくても、私は困らなかったのに。

 先方が旧家だろうが、何だろうが、それに怯むような私じゃなかったのに。

「いいえ、お父さんもそれを望んでいたと思いますよ」

 母は言ったものでした。そうかもしれません。けれど、ムダになってしまった。

 先方の親と同居するときに持たせようと、実家でそのときを待っていた箪笥は、結局、私の離婚に伴い、行き場所をなくしてしまいました。

 以来、二十年間、躾がほどかれることもなく、きものは眠り続けてきました。

 けれど私は前を向いて、生きていかなければならなかった。

 二度目の結婚のあとは、もはやおばさんと呼ばれる年齢です。

 しかし送ってきたということは、これを着よ、ということでしょうか。

 たとう紙を広げるたびに、私の心にはもわーっとしたものが広がっていく。

 なるほど、母は考えて、送ってきていました。

 晴れ着は嫌い、紬が好き、無地が好き、と言ったのは私です。

 紬は一枚が見事な朱、もう一枚は藍地に朱の井桁。三枚目は椿の織り文様。そして残る一枚は、一見、無地に見える、躑躅(ツツジ)のような色合いのピンクの鮫小紋でした。

 けれど色合いだけでなく、どうにも微妙に私の好みとズレてしまっている。心根のやさしい娘なら、好みを殺すこともできるのでしょうが、この私は残念ながら、そういう性分ではない。おまけにです、これらのきものが、父の生命保険が化けたかと思うと、よけいにいらいらしてくるものがある。これはもう送り人に電話するしかありません。

「もしもし」

「あ、きもの、届きましたか?」

「その、送ってきてくれたきものだけど……」

「あれなら、ふだんでも着られるでしょ」

 やはりそうですか。

「おかあさん、娘をいくつだと思ってるの。四十歳よ、四十歳」

「あら、きものは派手なくらいでちょうどいいの。洋服とは違うんだから。母なんか、四十代のころに、ピンク、着てましたよ。ふだんから着慣れてないと、仕事で着ても、しっくりきませんよ。家で着るなら、色なんてどうでもいいでしょ」

「家って、だって、自分で着られないもの」

「この際、どなたからか習ったらどうお?」

「えっ、うーん」

 ところがそれからまもなく、仕事で「父のきもの」を着ることになったのです。

 当然のことながら、男ものの大島に合わせる帯なんか、手持ちにはありません。新調するしかない。ここはセンスの見せどころ、と一応、母に電話したのでしたが、

「センスだけじゃ、帯は選べませんよ。染めには織り、織りには染めといってね、きものには決まりがあるの。京都のお友だちにでも相談して、早目に買っておきなさいね」

「はい。わかりました」

 あら素直。しかし返事がいいときほど、私の場合は要注意なんです。

 娘が夫のきものを着たところも、見ておきたかったのでしょう、ちょうどいい頃合いに、母が上洛してくることになりました。なーんだ、だったら、母とデパートに買いに行けばいい、と先延べにしてしまった。母が上洛したのは、前々日の夜でした。

「圭子、どんな帯を買ったの」

 待ちかねたように、母が訊きます。

「それがね、まだ買ってないの。おかあさんといっしょに行こうと思って」

 そう言えば喜んでくれるかと思ってた母は、眉根をきゅーっと寄せて、「まあ、どうするのっ」と言う。

 えっ。まさか帯までが、仕立てが必要とは、思ってもいませんでした。

 デパートなどでも、売られているのは帯ではなく、帯地なんだという。呉服売場で今まで何を見ていたの、と言われましたが、そもそも呉服売場なんて行ったことがありません。しかし何ですか、きものは帯に至るまで、オートクチュール、仕立てるんですか。

「そんなこと、子どもじゃないんだから、知ってるものだと思ってましたよ」

 そうですよね。でも誰も教えてくれませんでした。

 小学校の家庭科の授業で教わったのは、ボタンの付け方、スウェーデン刺繍。中学ではスカートを縫いましたが、だったら浴衣も縫わせてほしかった。いえ、百歩譲って、半襟の付け方くらい、教えてほしかった。そしたら私たちの世代は、もう少しきものに興味を持っただろうに、と思わざるを得ません。

「かがり帯でいいなら、母がかがってやれるけど」

「かがり帯って何?」

 なさけない。ともあれ、翌日、古稀を過ぎた老母と娘は、四条のデパートに走りました。呉服売場、もっときらびやかなところかと思っていましたが、そうでもないんですね。

 母が言うところのかがり帯(八寸名古屋帯)はすぐに見つかりました。お太鼓のところだけを二重にしてかがるだけの、厚地織のことのようです。でも巾が八寸ということで、ふつうの帯より三pくらい狭いらしく、素人目に見ても、貧弱な印象は否めません。

 でも、選択の余地はありません。柿色のものを選びました。

 そのとき、ベンガラ色のきものの生地のようにものが目に入りました。

「おかあさん、あれは?」

 ちりめんでしょうか、ふわりかけてある。でも、正札には名古屋帯とあります。

「ああ、いい色ね。あれが染め帯なの」

 染め帯、あんなてれんとした張りのない生地が帯?

「そうですよ、中に芯を入れて縫うんですよ。おかあさんが言ったときに、さっと買いに行っておけば、あういう、しゃれ帯が選べたんですよ」

 あれ、と思いました。母はあるときから、私と喋るときも、自分のことを「私」もしくは「母」と、言うようになっていたのですが、気がつけぱ、久々「おかあさん」の復活です。

「そうか。惜しかったね。やっぱり、あっちのほうが粋だよね」

「気に入ったんだったら、あれも買ったらどう?」

「そうだね」

 と、調子にのる母娘なのでした。というのも、それらの帯は、私がそれまで抱いていた帯の値とは、桁がひとつ違っていたからです。というのも、きものは宝飾品のようなもの、という解釈が、私の頭のなかでは出来上がっていたんですね。ましてや私の場合は、父の生命保険というキーワードがありますから、なおさらです。

 けれど目の前の帯に付けられた数字は、まるっきり日常の世界のものです。

 そこで思ったのが、箪笥で眠り続けている私のきものでした。

「そんなにいいものじゃないんだけど」

 と、母は言ったものでした。もしかすると、その言葉、額面通りに受け取ってもいいのかもしれない、と思ったのです。

 そしたら、ふっと楽になった。きものだからと、大事に奉らなくても、使ってあげればいいんだ、たかがきものなんだから、と思えるようになったときでした。

 五条坂での撮影の当日、市田ひろみ美容室で着付けてもらった「父のきもの」と、母が夜なべでかがってくれた帯は、予想以上に母の目にもよく映ったようでした。

 帰り道、母がぽつりと言いました。

「若い頃のきもの、色が気に入らないのは染め替えてもらったらどうお?」

 それは私のきものを、眠りから覚ます呪文だったのかもしれません。



【お詫び】
著者の都合により、「きもの遊び」連載は中止となりました。楽しみにしてくださった皆さまにはお詫び申し上げます。
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きものにまつわる名前、いろいろ


紅い紬……

しつけ糸をほどく呪文……

椿の柄の紬……

ちりめん地の鮫小紋……

帯のように……




エッセイスト
麻生圭子
小泉今日子、中森明菜らの作詞家として活躍した後、エッセイストに。'96年から京都在住。'99年から町家暮らしを始め、'05年には築80年の町家へ。伝統に囲まれた暮らしぶりは、著書『東京育ちの京都案内』、『極楽のあまり風 京町家暮らしの四季』、『小さな食京都案内』などでも披露。
公式サイト
「Keiko ASO's SEASONing」
 
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photos & text/ Aso Keiko
design / Cafeglobe.com