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「ここ」じゃなくて「あそこ」と呼ばれてしまうほど、 女性にとって、マンコは遠い。 手を伸ばしても届かないマンコを、もっと自分の身体に引き寄せたい。 オトコにいじらせるためにあるわけじゃないんだから。 文/稲垣早穂(ライター) |
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この春、京都精華大学に行った北原みのりさん(『LOVE PIECE CLUB』代表)から、「フェミ手話」の話を聞いた。みのりさんの講演を手話通訳してくれた女性に、レクチャーしてもらったそうだ。 当然のことながら、手話の表現も、刻々と変化している。たとえば女性器を指す手話は、かつては「女性の恥ずかしいところ」を意味するサインだったが、昨今、若い世代では「マンコ」のサイン(左右の親指と小指を合わせてマンコの形を作る)が使われているという。これがけっこうかわいい。 言ってごらん、言えないのかい? テクニシャン(死語)を自負するオトコって、なんでああも陳腐な「コトバ責め」が好きなんでしょう。恥じらう女性たちに、4文字だか3文字だかのダーティワードを言わせる、あれです。 以前、セミプロの男性とセックスをしたときのこと。彼は「特技:コトバ責め」を自称していたので、期待を膨らませていたのだが、いざフタを開けてみたら「ココ、何ていうの? 言ってごらん」。 ……マンコ。いいえ、そんなはずはない。それ日常語だもの。「言ってごらんよ。ん? 言えないの?」と芝居がかった声で言い募るオトコ。思わずフェミを恨んだ。フェミに出合ってさえいなければ。 「いやん、そんなこと、えーっと、ク、クリトリス」「違うだろ、クリトリスはこっちじゃないか。ほら、ココだよ」「ハアハア、そんなの言えない、やめて(エロ本だと「堪忍して……」)、もうイヤ、あーん」 と押し問答をした挙句、4文字とともに「ひー」と昇天したかもしれないというのに。こうして貴重な快楽を、ひとつひとつフェミに奪われていく私。フェミは欲求不満のババアの集まりだと嘲笑されてきたが、あながち否定できない気分。哀れフェミ。 落としてしまった宝物 それでもやっぱり、「マンコ」という言葉を得たことの幸福を私は噛みしめる。マンコは私の身体そのものだ。オトコはそれを「息子」と呼ぶけど、マンコは「娘」なんかじゃない。マンコは「わたし」だ。 『ヴァギナ・モノローグ The Vagina Monologues』は、200名以上の女性へのインタビューをもとに構成された一人芝居だ。初演では劇作家で詩人のイヴ・エンスラー自身が舞台に立ち、以後、世界30ヵ国で上演された。日本では2002年に訳書が出版されている(※1)。 そのなかの一編に、ベティ・ダドソン主催のワークショップに参加した女性の語りがある。エンスラーのインタビューのなかで、30代後半から40代前半の9名もの女性が、初めてのオーガズムをそのワークショップで経験していたのだという。 ある女性は、鏡を片手にクリトリスを探そうとするが、見つけられない。「クリトリスをなくしちゃったの」と訴えると、ベティ・ダドソンは彼女の額を撫でながら答える。「クリトリスはなくなったりしない。だって、それはあなたそのものなのだから」 いい話だ。泣けちゃう。いや泣けるのは、オンナとマンコとの、想像を絶するような距離だ。うっかり落っことしてしまった宝物という比喩は美しいけれど、手を伸ばしても届かないほどに、なぜそれほどまでに遠いんだろう。 クリトリスとの距離 「先生、できものが……と思いつめて診察に来る人いますよ、クリトリスのこと。若い女性から、70代の女性まで」と、産婦人科の医師がさらりと言っていたけれど、彼女たちの訴えが意味するのは、本人が覗き込むことさえかなわなかった部分に、伴侶であるオトコだけがアクセスを許されてきたということだ。 「マンコ」なんて汚らしい男言葉ではなく、もっとキレイな表現を探せばいいのに、と言われることもある。だけど、「マンコ」という言葉が猥褻なのは、猥褻なものとして扱われてきたからだ。男の手からそれを奪い取って、オンナの日常のなかに取り戻したい。それが私にとってのフェミだ。 自分の身体の一部をポルノ用語に貶めてきたのは、私たち自身でもある。フェミのおかげかトシのせいか、最近めっきり濡れなくなってきた私だけれど、でもいいの。私はフェミに感謝している。 ほぼ3年間続いたこの連載も、今回で最終回。長い間応援してくださったみなさんに、感謝の意を込めて、両手で「マンコ」サインを作りながらお別れしたいと思います。ありがとうございました。 |
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text / Inagaki Saho illustration / Hirayasu Kyoko |
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