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恵比寿、台風前夜。マリエのモヒート【東京一夜】 #ショートストーリー

恵比寿、台風前夜。マリエのモヒート【東京一夜】 #ショートストーリー

駅から遠く離れているうえにエントランスが少し奥にあるので、観光客や若い子たちはまずやって来ない。そこが、マリエがこの店を気に入っている理由だ。

通り沿いのガラス張りの扉は天気のいい夜には開け放たれ、長いカウンターで一品料理とお酒がひとりでも楽しめる。恵比寿駅から恵比寿三丁目に至るゆるやかなこの坂道を、マリエは学生時代に短期留学したニューヨーク、マンハッタンのロウアー・イースト・サイドに似ていると思っていた。誰かほかにもそう言っている人がいるわけではないのだけれど。「台風が近づいてきているみたいだね。明日、大丈夫かな」と、サトシからメッセージが届いたのは昨日の夜。

天気予報アプリをひらくと、派手な警告の文字とともに台風の予想進路図が現れ、見事に東京を通るコースが描かれていた。都心あたりの円に記された日時は、明日の19時。まさに待ち合わせ時刻だ。「きっと大丈夫だと思います。私、晴れ女だから」そう返しておいた。本当のところ、ちょっと自信はなかった。

* * *

サトシとは、先月、急に会社を辞めていった同期のヒロシが、たまに開いていた異業種交流と名づけた飲み会でたまに会うくらいの間柄だ。その会の決まりはただひとつ、「会社や仕事の話をいっさいしない」こと。

「だって、会社や仕事の話なんてしながら飲んだって楽しくないじゃん」というのがヒロシの言い分だった。

そもそも、何の仕事をしているかわからなければ、異業種交流も何もあったものじゃないわ、と思っていたものの、誘われるまま出かけるうちに、毎回参加するようになった。不思議な人脈をもつヒロシのおかげで、いつも盛況だ。そして、けっこう楽しかった。サトシは、そのなかでもおもしろいと思うメンバーのひとり。毎回来ているわけではないけれど、彼が話してくれる「最近気に入った本」の話がマリエは好きだった。自然科学、文学、アート......。まったく知らない本の話を、彼は楽しそうに、でも静かに語る。

会場に入ると、いつも真っ先にサトシの姿を目で探したけれど、言葉を交わしたことはほとんどなかった。指導した後輩男子たちがマリエを追い抜いて軽々と昇進してゆく。そのことに気がついてから、ずいぶん経つ。なんとかしなくちゃと思いながらも、目の前のことで精いっぱいだと自分に言い訳をしているうちに、結局、いまになってしまった。もう、いまから何かをはじめるには遅いんじゃないか。そう考えると、足下をすくわれるような恐怖を感じる。それは、私はもう若くはない、と自覚するのと同じことだったから。

目を閉じて、気づかぬふりをしようと思ってきたけれど、ある日限界がきた。叫び出したくなるような不安な気持ちを振り切ろうとしたときに、思い出したのがサトシのことだった。メッセンジャーをひらき、まだ会話のはじまっていない真っ白なフィールドに勇気を出して書き込んだ。「私のために、本を一冊選んでくれませんか?」

* * *

台風は少し遅れてやってくる、という最新の予報の通り、待ち合わせ時刻には街は穏やかだった。

モヒートは、台風に似合うね。そんなことを言うサトシは、まったく違う業界で仕事をしていると言った。少し年下だった。ふだん、どんな生活をしているのかはよく知らない。

あれからずっと、マリエさんのことばっかり考える日々だったよ、と彼は言った。どんな本を選んだらいいんだろうって。だって、こんなお願いごとされたの、初めてだから。でも、楽しい時間だった。ありがとう。

そう言って差し出された本の著者もタイトルも、マリエは知らなかった。彼はいったいどんな答えを準備してきてくれたのだろう。

店を出て、歩き始める。駅まで15分。ふと会話が途切れたときのサトシの横顔が、とても美しいと思った。あれ、彼って、こんな人だったっけ。その瞬間、ずっと眺めていたい、と感じた。私は多分、もっと彼の声が聞きたくなる。もっと彼の話が聞きたくなる。もっと彼のことが知りたくなる。

そして......彼のことがきっと、好きになる。

雨の予感をたっぷりにはらんだ風が、だんだん強くなってきた。突風を避けて、2人でビルの軒先に駆け込んだ。恵比寿、23時。台風が到達するまで、もう少し。

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